楽しい日常日誌 ~詩的否私的日常日記 ~

隠れblogにするつもりでしたが、<私的日常日記>にしました。でも、ネットの私的って,一体なんだ!? 
by HIROKO_OZAKI1
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柳田国男『雪国の春』を読む

「支那でも文芸の中心は久しい間、楊青々たる長江の両岸に在ったと思う。」
という書き出しで始まる 『雪国の春 』 は、名文であるという評価が高く、その内容も現代に至って大変重要な問題を提起したものであるといえる。

「いわば日本国の歌の景は悉くこの山城の一小盆地の風物に外ならぬのであった。」
と、日本の文芸の歴史のほぼすべてに大きな位置を占める(本当にそうかどうかは不明だが)について、地域や個別の体験を軽視したステレオタイプであることを指摘し、
「風景でも人情でも恋でも述懐でも、常に此通りの課題があり、常に其答案の予期せられて居たことは、天台の論議や旧教のカテキズムも同様であった。だから世に謂う所の田園文学は、今に至るまでかさぶたの如く村々の生活を覆うて、自由なる精気の行通いを遮っているのである。」
と言う。

柳田はここで、自らの経験として、京都の宿の瓦葺きになっている部屋で聞いた <小夜時雨>の音、北山、西山の地形に水蒸気が薄く停滞して生じる<春霞><春の夜の月>について、その狭い地域でしか通用しない景物の例として挙げて述べているが、その中で、「夢驚かすと歌に詠んでもよし、降りみ降らずみ定めなき、と謂っても風情がある」と述べている。
(かなりなロマンチスト!)
そして、当時の文学状況について、特に中央中心的な和歌の状況に憂えているようなのである。

この時期は、折口信夫が、「日本文学の発生」(1922、大正11)等の論文で古代文学研究に民俗学的方法を導入し、一方、和歌や文学の世界でも、様々な活動が活発な時期でもあった。

この文章は、1928年、明治時代に書かれたものである。

だが、これ、よく考えると、実はわたしたちもよくやっている。
そう、小さな世界での共通理解を前提として詠まれる歌。
ちょっとだけ、その世界の中のみの相聞に似ているところもある。
そして、文体や言葉の巧みさが、面白い、わかる、という前提の下に認められるのは、認める側にとってまずは「よくわかる」歌ということになるのである。

それが、共同幻想のうえにのみ成り立つのが短歌、だから短歌はダメなのだ、という、いわゆる短歌否定論にもつながったのだろうか?
共通理解の上のみに成り立つのがどうして駄目なのか。誰が読んでもわかる歌が本当によいのか。では大きな世界の中で共通する詩ならよいのか。

今現在の歌について、私にはよくわからないのだけれど、(少数者の思いを代表する歌も、地方の歌も、今ではいくらでも見つけることができるのだから。)、少なくとも日本語で書かれた歌について考えるとき、この視点は不可欠なものであると思われるのだ。

<すこし引用した文献・「雪国の春」柳田国男 青空文庫>
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
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by HIROKO_OZAKI1 | 2014-10-17 23:21 | 読書
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