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月の櫂

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『春の野に鏡を置けば』 中川佐和子歌集

中川佐和子さんの歌集 『春の野に鏡を置けば』 の読書会に、
参加させていただいた。
世話人は、スワンの会の中川宏子さん。

会では、「上手い」という評が多かった。
ベテランの歌人であり、講座の講師も務めている作家だから、
上手いのは当然なのだが、今さらながらに歌がそう評されるのは、
作品が信頼できる仕上がりになっているからに他ならない。

中川の歌には、母、息子、娘等の家族がぽつぽつと登場し、読者は、
ごく一般的な家庭像を通して、様々な感動を共有していく。そして、
作者をある程度知る人々は、歌の裏事情というものも、念頭に置き
ながら、その親密さに応じた反応によってはらはらしながら、読み
進むことになる。

 父の墓に長く屈みて頼み事しているようだ母らしいなあ
 一人居の母に日本は計画の停電の闇割り振ってくる
 母を守る懐中電灯 計画の停電の闇は日本の闇なり 
 腰痛き夫と松葉杖のわれ リモコンの類日々に投げ合う
 まだ息子の顔してうなぎパイをさげ月を背中に家に帰り来 
 近づけばほのと明るむ電燈のごとき母居り躑躅咲く家

  
それがごく普通のありきたりな日常の情景であっても、作者にとっては、
かけがえのない、日常の一こまであり、歌として定着させて、数百からの
不特定多数の前に作品としてあらわすことは、簡単なようであって実は
さほど容易なことではない。

表題になっている歌は、

 春の野に鏡を置けば古き代(よ)の馬の脚など映りておらん

と、古代を思う幻想的な作品。

日本の古代の馬匹文化の誕生については、白村江以前の好太王の時代に
遡る朝鮮半島の戦乱に協力することが必要とされた故に、馬を操る文化も
また必要とされた、というのが現代の日本古代史上の定説である。

戦前戦中には、京都学派による主張として、北方騎馬民族の日本への
侵略が、たぶん弥生から古墳時代に大々的にあったとされ、民族主義に
加担したとして戦後大きく批判されたのである。

馬文化の日本への定着の仕方については、現代の車文化の定着を
参考に考えるとわかりやすいかな、と思う。

 働けど貧しい瑞穂の国になり優先席の若き爆睡
 卓上に中国歴史小説を一冊置きて冬あたたかし
 <物言わぬ兵士>にされし馬ありき誰もだれもが必死に生きて
 なぜならば暑くて坂上郎女とわれは沈みぬ黒きソファーへ

今回取り上げられていた作品の中にも、感情移入を控え、視点をゆるがせ
ないながら、淡いトーンで古代社会への憧憬を彷彿とさせる作品がいくつか
あって、心ひかれた。
かつて天安門事件をテレビを見る家族の視点で歌った中川の、<ほどよい>
社会詠は、長い歴史の縦軸へも向かっているのである。

ところで、昭和23年の文章だから、これもずいぶんと古いものになるが、
近藤芳美は、歌論集 『新しき短歌の規定』(「28 若き歌人らに」) に
おいて、
「歌を作るものの生活は硝子ばりの中の生活である。」
「ここでは嘘が言えないと同時に、あるがままの真実以上が語れない。」
「文学としての営為は、感動のどこをいかに切りとるかということと、
とにかくそれを定型詩としてまとめるだけである。」

と述べている。

自らの真実を表現することにおいて、読み手の感動や共感を得るという
方法が、戦後、近藤らが続けてきた短歌である、ということなのだ。
短歌が実名の文学であり、そこにただ一つの「顔」(他者の顔ではなく、
作者自らの顔)が見えることが条件である、とされてきたのも、そこに
由来するだろう。

もちろん、そんなことを不特定多数の前で続けることは、特に、時代を
経た現代、誰にでもできることではないし、時代に応じて文化も変遷する
のだから、人気の出る短歌の作り方だって変わってきて当然である。

だから、ウケをねらうというダサイ方法によるエンターテインメントや、
文学とは乖離した狂歌的な風刺へと向かう作品だって、堂々とまかり通る。
もちろん、ものが言いにくい時代になりつつある今、そんな中にさりげなく
何かを含ませる、ということもまた、一つの手法としてあり得るのだろうけれど。

それから、座の文芸」である和歌から派生してきた短歌であるから、当然、
「本歌取り」等の技法や遊びの要素は、高度な技術として許容され受容され
るわけなのだが、現代の詩の一ジャンルとしての短歌である限りは、やはり
譲れない一線というものもあると思う。古いかなあ。

計画停電で思い出したのだけど、中央アジア等では、計画停電は、
災害時ではなくても、ごく普通に日常的に行われているのだそう。
停電を割り振るのではなく、電気の供給を、地域ごとに一日数時間ずつ
割り振っているという。少数民族の村ぐるみ虐殺も、未だに多いらしいが、
報道されないので誰も知らないらしい。

12月7日の渋谷駅。
前日の秘密法の強行採決に抗議するデモ隊とすれ違った。
日本の闇は、いろんな意味で、とても深い。
by HIROKO_OZAKI1 | 2013-12-07 23:59 | 短歌と短歌論
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