楽しい日常日誌 ~詩的否私的日常日記 ~

隠れblogにするつもりでしたが、<私的日常日記>にしました。でも、ネットの私的って,一体なんだ!? 
by HIROKO_OZAKI1
カテゴリ
全体
趣味
短歌と短歌論
古典
読書
暮らし
おでかけ
話題
未分類
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
http://www.itoen.co.jp/new-haiku/18/kasatoku03.php

震災歌集 長谷川櫂 

5年半たって、読んでいる。出版は、2011年4月という驚くべき早さで、311の後に世に残された歌集。全ページ1首組によって編まれ、本は全体で144ページ。

 夢ならず大き津波の襲ひきて泣き叫ぶもの波のまにまに
 乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母をみつ昼のうつつに
 かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを
 大津波溺れし人を納むべき棺が足りぬといふ町長の嘆き

 亡国の首都をさすらふ亡者否! はるかにつづく帰宅難民の列

まるでその時のニュースを見なおしているかのように、鬼気迫る状況が思い起こされる。

 フィレンツェの街をペストの襲ひしとき山ごもりせし男女(おとこおんな)あはれ
 今に思へば鴨長明幸ひなりき大津波を知らず一生(ひとよ)を終へき 

原発から避難する者が多いこと、あるいは汚染した風が襲ってきたときに家に籠もっていた者を、ペストが流行した時のフィレンツェに暗喩的に例える。「あはれ」と言う。
「デカメロン」等の物語に残るように、裕福な者は逃げて、残された農民が政治を行ったという。その時農民たちが貴族の振りをするために被った仮面が、アノニマスのあの仮面でもあるというのは象徴的である。だが、ペストの流行とは違い、原発事故後には、100年たっても、ルネサンスなど訪れることはない。このままの調子でいけば、引き合いに出すのはダンテということになるのだろうが、日本の詩歌文学の引用によって詠われる歌集後半で、作者は、大きな災を知らずに一生を終えた者として、鴨長明を引く。

 おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ
 かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸
 国ぢゆうに嘆きの声はみつといへど政争をやめぬ牛頭馬頭のやから

誰がトップにいたとしても、このようなことは言われるのだろうけれど、これもまた、多くの人の記憶に映像として固定されているから、今読んでも、いかにもリアルである。

 六本木ヒルズ東京ミッドタウン煌々と輪番停電の闇を嘲笑ふ
 壊れたる家々はもとにもどらねど三日でもどるバラエティ番組
 禍(まが)つ火を奥に蔵せる原子炉を禍つ神とし人類はあり
 くらくらと海月(くらげ)なす国大八洲地震(おやしまつちふる)ふたびかくもさゆらぐ
 ゲーセンに子どもあふれてゐることの平安を思ふ大津波ののち
 久々に東京に出ればあはれあはれいたく憤りて帰ることあり
 天地も鬼神も歌はうごかすと貫之書きし『古今集』仮名序 
 
 東国の故郷の家に母をおきて西国を護りし若き防人
 鶴となり白鳥(しらとり)となりはるかなる東国へ還れ防人の魂(たま)

著者は、俳人。一般的に言えば、むしろ抒情を排して言葉を遊ぶ詩形の側の作家であるだろう。
折々に、『古事記』や仮名序(紀貫之『古今和歌集』)からの引用がなされており、まるで日本への挽歌のようである。あとがきのタイトルは、「歌の力」。このような時にこそ、歌は力を発揮するのだ、と、そのまま好意的にとってもよいけれども、日本の文化に対する強烈な皮肉ともとれる。5年経った今でも、その感覚は薄れることはないのだろう。

 被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑をおかけして申しわけありません」
 身一つで放り出された被災者のあなたがそんなこといはなくていい

まったくその通りなのだ。被害者に自分が悪い、と思わせることで甘い汁を吸うのは加害者という構図。この一連に連なる作品に、

 世界恐慌そのただなかに身売りせし農民の娘幾万かしらず

という歴史の不条理を描く歌もあるが、これについては一つ不満を。
世界恐慌の中に、女を売った社会が農民社会や農民社会をはじめ国民を抑圧する国全体の権力構造にあったということを、あたかも主体的な行為のように「身売りせし」と表現したことについては、もう一工夫ほしかった。美徳として押し付けられたり、騙されたりしたみちのくの人の人のよさとを言いたかったにしても、歴史上の明らかな搾取であり差別なのだから、せめて「身売りさせられし」くらいに言ってもよいだろう。
 

「震災歌集」長谷川櫂 (2011年4月25日 中央公論社)
[PR]
# by HIROKO_OZAKI1 | 2016-09-05 08:53 | 短歌と短歌論


その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧