楽しい日常日誌 ~詩的否私的日常日記 ~

隠れblogにするつもりでしたが、<私的日常日記>にしました。でも、ネットの私的って,一体なんだ!? 
by HIROKO_OZAKI1
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『木下杢太郎を読む日』 を 読む日

1月中旬締切の万葉集についての卒論をつつがなく(でもなくて、間際まで
訂正して差し替えたりしていたのだけど)、提出し終えて、少し脱力している
ところ、本棚にならぶ本の中でひときわ気になっているのが、

『木下杢太郎を読む日』 岡井隆 (幻戯書房、2014年1月5日発行)

装丁はとても洒落ていて、木下杢太郎に関連する絵がいくつも採用されている。
白い表紙カバーには、木下杢太郎の自画像。帯の表と裏にも、白黒の絵。
そして、書籍本体の表紙には、北原白秋『邪宗門』の挿絵。この表紙の絵は、
ちょっと不気味な蛇のデザインのもので、帯の裏側の方の、木下杢太郎詩集
の挿絵・「メドゥーサの首」と微妙に印象が重なるような趣向になっている。

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帯には、大きな文字で 「私評論という境地」 と書かれている。

歌誌『未来』に連載されていた評論、読み進めていくと、最初の頃に、

  おやおや。杢太郎は、鷗外評伝に場を借りて自分のことを言っている!
  これは、公然たる自己批判でもあり、自省の言葉であろう。「後年の独逸の
  父子劇に於けるが如く家庭と争ふやうな者は無かつた」というのは、自分
  自身ののことを含めて言っているのだろう。

といった文章に出会い、<私評論>というのはそういうことなのか、と気がつく。
それなら、(もちろんレベルは違うが)、私も時々やっている。

背景についての知識が希薄でも文体によって読み進むことができるのが
ありがたい(文章も、旧仮名ぢやないし。)し、続きは改めて読むのを楽しみに
するとして、私が木下杢太郎に特別に関心を引かれているのは、最近たまたま
読んだ、柴生田稔の『万葉の世界』の、次の一文によるのである。

  木下杢太郎のようなもっとも教養の匂いが高いともいうべき人が、
  万葉集は自分には無縁の世界だと告白した如きは、どう解すべきか。

  明治末年以降の「校本万葉集」編纂を一時期として、純学的方面に
  おける活動とその成果も関連して観察され、解釈されなければならない
  ことである。
  しかもこの間、主流的文学者の万葉集受用の面においては、はなはだ
  その成果が少ないようである。

杢太郎以外に引き合いに出されているのは、坪内逍遥、二葉亭、与謝野晶子、
漱石、鷗外、宮本百合子などなど。
漱石の俳句の「かも」も、友人子規の添削によるものであるという。
きっと、知っている人には有名な話なのだろう。

初出は、『国語と国文学』 昭和27年(1952年)4月号。
書籍 『万葉の世界』 の出版は、昭和61年(1986年)6月だから、随分と長い
スパンで自らの問題意識について考えを重ね、公表されている。
適当に誰かのアイディアをちょろんと盗んで書いてしまうよう最近のお手軽な
エッセイ評論とは違うのが、昔の実直な文学者、、とばかりは言えないかも
知れない(すべて同時代人は密接に関連しあっているのだし)が、やはり、
尊敬するべき対象については、そういう風に思っておきたいし、実際そうなの
だろうと思う。

あとがきには、

  文学を愛すると言うのが、早く少年時代の私の願いであった。
  その後に及んで更にその願いが強くなってきた。
  それならば、その文学をどのように扱うのであるか、根幹を説いた
  ものがよいのか、実際に触れたものがよいのか、そういう分類が
  できるであろう。お前はどちらを取ると言うのか。それに対して私は、
  どちらでもよいのだと考えているのである。

とあり、本文の最後は、

  万葉集は、日本文学の伝統において、ほとんど唯一の現実的、生活的な
  場に立つところの文学である。しかし顧みるに、その短歌以外の文学に、
  実質的に働き掛けた場合は、ほとんど見当たらない。
  そうして正岡子規以後、半世紀を経ても、なお実際には、古今的伝統の
  力が一般といわず、文学界といわず、強く行きわたっているように見える。
  短歌形式の桎梏は、ついに万葉リアリズムの受用を不可能とする必然を
  もつものであろうかどうか。

なんともかっこいいが、どうも難しい。
万葉リアリズムとは、そもそも何なのだろう。

若山牧水についても、

  これまで若山牧水の作品には、万葉集からの影響はないものと考え
  られて来た。

ということを、これは、アララギ派の歌人で「なづの木」の主宰、万葉研究者でも
ある田中教子さんの最近の論文 「牧水の恋と死-若山牧水と万葉集―」 の
冒頭の言葉によって、知った。だが、よく読むと、例えば死の表現などに、
万葉の影響が見られないか、ということなのである。
(この論文も、5年という月日を経て完成されたと、ご本人に伺った。)

万葉集は、その生活リアリズムとはうらはらに、その時代の神話や風土記と
同様、それ以前までの荒れに荒れた時代への憧憬を根本に置いて成立した、
朝廷のための文学である。そのことと、戦前から戦中戦後に万葉集が流行
したこととは、決して無関係とは思いにくいだろう。
だから、私は、近藤芳美の「万葉集をうちやまぬかも」という表現の裏に、
手旗信号の具象のみではない、万葉集への複雑な思いのようなものを
感じてしまうのだ。

古典として作品を楽しむのはよいけれども、それをそのままに規範として
受容するというのは駄目だし、応用するというのだって、現代に生きる人々
には、簡単なことではない(岡井隆さんにもどると、本当にうまく、作品に
応用されているけれども!)のだから、あまり勧められるようなことではない
のかもしれない。



  
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by HIROKO_OZAKI1 | 2014-01-18 20:31 | 短歌と短歌論


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