楽しい日常日誌 ~詩的否私的日常日記 ~

隠れblogにするつもりでしたが、<私的日常日記>にしました。でも、ネットの私的って,一体なんだ!? 
by HIROKO_OZAKI1
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カテゴリ:短歌と短歌論( 19 )

いのちいっぱい ~ 鳥居歌集を読む


桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

という、岡本かの子の歌を思い起こしている。

2016年12月29日(木)、京都。鳥居歌集「キリンの子」を読む会。

「キリンの子」鳥居歌集は、2万部という、歌集としては破格の部数を売り上げた歌集。TVや全国版の雑誌、新聞などでも紹介され、フランスにも招聘されたり、最近は岡井隆との50首の歌合も総合誌に発表(相手が岡井隆だから余計そう思うのかもしれないが、かなり上手いように思う)し、すでに著名作家ということである。
イベントには、短歌の世界ではすでに著名人である50代のパネリストの他、会場にも、短歌総合誌で頻繁に名前を見る歌人たちが集い、発言をされていた。若い短歌作家や、ファンの人たちの姿も多い様子である。
実行委員は、岡井隆、大辻隆弘、水原紫苑、吉川宏志。12月に入って急きょ企画されたという。
会は、あくまでも短歌作品に即しての評を中心に進められたが、このような創作の仕方による本人の心理の危うさについても、言及されていた。マイクも入っていたし、メモを取りそびれた部分もあるので、後でどこかで完全なものを読めないだろうか、と思う。

私はと言えば、歌集を読み進めながら、作者の体験を通して語られる実態に驚くことも多かったが、ここに至って、作者本人の言葉を聞いて、涙が止まらなくなった。言ってもらわないとわからない。多少それに似た経験があったとしても、誰もが弱みを見せずに生きている中で、沈黙することで見過ごしてしまうたくさんのこと。そういうことがまぎれなく存在することを、この小さな女の子が、私たちに知らせている。(それは、本当は、この社会の中の誰がするべきことなのだろうか?)
最近は景気がよいとかなんとか言われているけれども、相対的貧困の度合いは高まっているし、自殺者は相変わらず多い。日本の子どもの貧困が5人か6人に1人という数字までよく知られて、問題になっているはずだ。
歌集とノンフィクションには、作者が、大変な状況の下でここまで来られたことが、たくさんの事実を歌う作品と共に示されている。短歌は実名の文学である、と言われているし、私もそう思うのだけれど(過大なフィクションが嘘として疎まれるのはまさにその点においてであるのだろう)、この作者に関しては、今のところは、本名を明かさない上での「実名」でよいのだろう。
「キリンの子」はちゃんと買ってきちんと読んだ方がよい歌集だし、短歌と合わせて、作者の生い立ちをつづった、ジャーナリスト岩岡千景の「セーラー服の歌人鳥居」も、読んだほうがよい。

「ほんとうのこと」が社会に訴える力は大きい。だが、当事者が声を挙げることは、弱者であればあるほど難しい。短歌という日本語を母語にする者の<骨格>とも言えるような定型詩を創作していく中で、作者はそのことに大きな意味を見出しているようだ。(さて、それで、読む側はどうなのか。)

作者は、あいさつの中で、「泣き叫びたくなるようなことを、泣きながら歌にした」と語っていたが、これらの作品群は、受け取る側にとっても、たぶん、ぎりぎりの、読んで作品として許容できるラインなのではないだろうか。

過酷な状況下にあった魂が、これから、どのような風景に感じ入り、どう言葉に思いを託し、詠っていくか、ということに、(どんな対象を素材として選ぶかということも含めて)、私は関心がある。
例えば、招へいされて出かけたフランスで目にした異国の諸もろの風景に、作家はどういう思いを抱いただろうか。
詩との出会いは岡井隆であるという作者、「写生」という方法にも関心を抱いている様子が本には書かれている。植物の名前など、私なども知らないものが多いけれど、植物園に行けば、木や花や動物の名前も表示されているから、そういう場所での吟行は大好きなのである。もちろん植物園でなくても、動物園や博物館でも、日常の風景でもよいのだけれど、様々なものを見て言葉によって思いを広げようとするとき、こんな風に繊細な魂は、どういう風に翼を広げていくのだろうと、はらはらするような期待を持ってしまうのだ。

 夜の湖に君の重みを手放せば陶器のように沈みゆきたり

この歌のもとになった作品は、ノンフィクションのほうの書物に紹介されている。

 夜の湖に君の重みを手放せば陶器のように沈みゆく首

陶器の重さと静けさ。最初は、首というさらにどきりとする表現であった。
もとになっている経験は、湖ではなくて、故郷の海でのある出来事。そこでは、戦後十年目の夏に、地元の女子中学生の集団水死事件があったという。友の墓参りの帰り道、思いが極まって、冬のその海に向かって走り水に入ろうとした。
海岸は、三重県の津であるというから、私もちょっとは土地勘がある。人に聞いたら、その海岸は護岸流が激しい場所で、それで引き込まれやすい場所であるという。女子中学生の事件はその流れのせいなので、戦争で亡くなった人たちに引きずり込まれたというのはもちろん後付けの話。



<付記>
かなりの人気が出た歌集、市販されたものとしては、俵万智以来でもあるとか。時代を写すというか象徴するというか、そういう存在なのであろうけれど、あくまでも状況を告発しているだけであり、ではどうあるべきか、ということは提示していない。つまり、提示されることで共感や問題意識、変革への動きを引き出すと共に、「そういうものなのか」「仕方ない」といった状況固定や再生産がされてしまわないか。表現にはそういう危険は常につきまとうし、読者の良心に負う真当な反応ばかりを期待するのは相当甘いというものだ。もちろん、作者はその程度のことは念頭においてうってでているのだろうけれど、これは被害者がセカンドレイプに苦しむのと同じ危険をはらんでいるだろう。最近、ある女性が権力者に近いジャーナリストのレイプ事件を告発した事件のニュースを見ながら、そのことだけが少し気になっている。(2017.6.付記)
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by HIROKO_OZAKI1 | 2016-12-30 12:03 | 短歌と短歌論

震災歌集 長谷川櫂 

5年半たって、読んでいる。出版は、2011年4月という驚くべき早さで、311の後に世に残された歌集。全ページ1首組によって編まれ、本は全体で144ページ。

 夢ならず大き津波の襲ひきて泣き叫ぶもの波のまにまに
 乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母をみつ昼のうつつに
 かりそめに死者二万人などといふなかれ親あり子ありはらからあるを
 大津波溺れし人を納むべき棺が足りぬといふ町長の嘆き

 亡国の首都をさすらふ亡者否! はるかにつづく帰宅難民の列

まるでその時のニュースを見なおしているかのように、鬼気迫る状況が思い起こされる。

 フィレンツェの街をペストの襲ひしとき山ごもりせし男女(おとこおんな)あはれ
 今に思へば鴨長明幸ひなりき大津波を知らず一生(ひとよ)を終へき 

原発から避難する者が多いこと、あるいは汚染した風が襲ってきたときに家に籠もっていた者を、ペストが流行した時のフィレンツェに暗喩的に例える。「あはれ」と言う。
「デカメロン」等の物語に残るように、裕福な者は逃げて、残された農民が政治を行ったという。その時農民たちが貴族の振りをするために被った仮面が、アノニマスのあの仮面でもあるというのは象徴的である。だが、ペストの流行とは違い、原発事故後には、100年たっても、ルネサンスなど訪れることはない。このままの調子でいけば、引き合いに出すのはダンテということになるのだろうが、日本の詩歌文学の引用によって詠われる歌集後半で、作者は、大きな災を知らずに一生を終えた者として、鴨長明を引く。

 おどおどと首相出てきておどおどと何事かいひて画面より消ゆ
 かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸
 国ぢゆうに嘆きの声はみつといへど政争をやめぬ牛頭馬頭のやから

誰がトップにいたとしても、このようなことは言われるのだろうけれど、これもまた、多くの人の記憶に映像として固定されているから、今読んでも、いかにもリアルである。

 六本木ヒルズ東京ミッドタウン煌々と輪番停電の闇を嘲笑ふ
 壊れたる家々はもとにもどらねど三日でもどるバラエティ番組
 禍(まが)つ火を奥に蔵せる原子炉を禍つ神とし人類はあり
 くらくらと海月(くらげ)なす国大八洲地震(おやしまつちふる)ふたびかくもさゆらぐ
 ゲーセンに子どもあふれてゐることの平安を思ふ大津波ののち
 久々に東京に出ればあはれあはれいたく憤りて帰ることあり
 天地も鬼神も歌はうごかすと貫之書きし『古今集』仮名序 
 
 東国の故郷の家に母をおきて西国を護りし若き防人
 鶴となり白鳥(しらとり)となりはるかなる東国へ還れ防人の魂(たま)

著者は、俳人。一般的に言えば、むしろ抒情を排して言葉を遊ぶ詩形の側の作家であるだろう。
折々に、『古事記』や仮名序(紀貫之『古今和歌集』)からの引用がなされており、まるで日本への挽歌のようである。あとがきのタイトルは、「歌の力」。このような時にこそ、歌は力を発揮するのだ、と、そのまま好意的にとってもよいけれども、日本の文化に対する強烈な皮肉ともとれる。5年経った今でも、その感覚は薄れることはないのだろう。

 被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑をおかけして申しわけありません」
 身一つで放り出された被災者のあなたがそんなこといはなくていい

まったくその通りなのだ。被害者に自分が悪い、と思わせることで甘い汁を吸うのは加害者という構図。この一連に連なる作品に、

 世界恐慌そのただなかに身売りせし農民の娘幾万かしらず

という歴史の不条理を描く歌もあるが、これについては一つ不満を。
世界恐慌の中に、女を売った社会が農民社会や農民社会をはじめ国民を抑圧する国全体の権力構造にあったということを、あたかも主体的な行為のように「身売りせし」と表現したことについては、もう一工夫ほしかった。美徳として押し付けられたり、騙されたりしたみちのくの人の人のよさとを言いたかったにしても、歴史上の明らかな搾取であり差別なのだから、せめて「身売りさせられし」くらいに言ってもよいだろう。
 

「震災歌集」長谷川櫂 (2011年4月25日 中央公論社)
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by HIROKO_OZAKI1 | 2016-09-05 08:53 | 短歌と短歌論

イーハトーブの数式 大西久美子

私はなぜ、歌集を読むのだろう。
結論から言えば、どうしようもない国の、アメーバみたいに得体のしれない人々、ではなくて、ひとりひとりの一所懸命生きている姿と声に出会いたいから、であると思う。
特に、この歌集は、震災を経ての、東北出身者である歌人による作品集である。
時に、原発事故は日本という変な国への天罰、欲望のままに走り続けたあげくの自業自得的滅亡路線、とマイナスな方向に向かいそうになる意識を、そうではいけない、社会や国や世界はよい方向に向かってもらわないといけないのだ、といったごくごく真っ当で健康な方向に補正できるようにしたいから、なのだ。(この歌集はそうではないけれど、本音で言えば、必ずしもそううまくは運ばない場合も結構あるのだけど。)

この歌集を読んでいて、心象風景の奥に何かが見えるような気のする歌に時々出会った。
普通、こういうものには人は強い共感を抱かない。不思議な感性だ、なんとなくわかる、などという感想は持っても。だが不思議に私は、この類の歌に変な共鳴を覚えたのである。それも、同時代を幾分でも共有している所以であろうか。

伸びてゐる自分の影の先端に触れることなく上る坂道 82
二秒後のわたしがそこにゐるだらう今の自分の影の頭に 83

少しだけ翳つたやうだこの森のどこかにきつとスイッチがある 91

前半の、故郷と両親にまつわるストーリーを読み取りやすい境涯詠を別にすると、現代の風物をモチーフにしている歌が多い。だが、

 とほい世の落葉松林だつたらうお湯にほどけるチキンラーメン 68

は、茂吉の「遠き世の迦陵頻伽の私児」を想起させるし、

 ゼラチンで固めてしまふ三月の雪の話をしようぢやないか 112

という意味をつかみにくい歌は、岡井隆の女性のマラソン選手の容貌を皮肉った歌を思い起こさせるのだ。

また、作者は、(これは6月11日(2016年)に開かれた批評会でも多く指摘されていたが)、枕詞を用いる作品にも果敢に挑戦する。

 ひつそりと書棚の奥のしらまゆみHAL9000はだれを待ちゐる 92

といった具合。

明らかに短歌と和歌の歴史の縦軸を意識した作品に出会うのだ。
詩とは分けて、「短歌」ってなんだろう、と考えた時、単なる57577という音数の縛り以外になにかがあるとすれば、それはまさにその辺りにあるのではないだろうか、と私は思う。
日本語の定型詩である短歌と和歌が辿ってきたその時々の、詩歌のありようによる作り方で短歌を作ることを楽しむ。たとえば、叫んだり泣いたり、怒ったり訴えたり、自然を写してそこに自分の心を託したり、自然以外のモノや人に思いを寄せたり、誰かに伝えたり、日常を記録したり、日本語の音の心地よさに酔いしれながら音数をあわせたり。
それは時に、自分が意識しなくてもどういうわけか自然にそうなってしまう、といった類のものであり、まさにそのことが、短歌をつくる魅力である、と私は思うのだが、この歌集の作者は、きちんとそれらを学んで(短歌を作るのに「学ぶ」という言葉がふさわしいかどうかわからないのだけど)踏まえながら、作歌に臨んでいる、というふうに思える。無論作者は、それをひけらかしているわけではなくて、歌に向き合いながら、そのことを楽しんでいるのである。

また、私はこの歌がとても面白いと思ったのだけれども、

 青空を鳥のかたちに切り抜いて摑む/離れるフォロワーの数 84

というtwitterの状況をうたったと思われる作品。三句目まででは、マグリットの「大家族」の絵を思い起こさせる。相手を知っているのか知らないのかさえ曖昧なtwittterという空間は、変に親密な雰囲気の「大家族」、のようなものにも思えてくるし、その「大家族」というキイワードは、古く近代より昔の農村の大家族の様相さえ、垣間見させる。それは、作者が何度も何度も提示する郷里のどちらかというと洒落たイメージ「イーハトーブ」とは真逆の、そこに居る者や作者をむんずと摑んで離さない、遠野物語のような陰鬱な世界でもある。中ほどのスラッシュ記号「/」は、その断層のように自分の存在と隔絶した感覚を示しているようにも思われてくる。
いくら何でも深読みのし過ぎだろう、と言われそうな気もするが、

 青空を渡りゆくなり方言を持たない鳥の呼び合ふ声が 31

といった作品の存在は、決してその解釈を否定しない。

郷土、しかも都会ではない地(都会だって日本は<田舎>だ)について現代人が語る時、土着のマイナスの部分を、いかに払しょくするか、ということにかかっているのではないかと思うのである。

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by HIROKO_OZAKI1 | 2016-06-13 21:42 | 短歌と短歌論

千種創一歌集 『砂丘律』

最近話題の、千種創一の歌集『砂丘律』。
2月に名古屋で開かれた批評会には多くの人が集まり、充実した内容の会となった。
口語律の問題は、ここで一応うまくまとまった、という印象である。

歌に描かれる、日本の情景、異国の情景。作者の不毛感、違和感。心象。救いのような他者とのかかわり。だが、それもまた時に危うい存在に思えてくる。
そして読者は、この歌集の風景が、危険が常態化している異国と地続きのものとして、表向き平和である日本の日常でもあることを示されるのだ。実際、日本の景と異国の景は、区別されずに歌集の中にあらわれ、読者もそれに違和感を持たない。
異国にあって母国語で歌う時に土台となる、母語に対する郷愁のようなものがあまり感じられないのは、現代という時代とそこに生きる若者たちが、思う以上にグローバル化されている、ということなのだろうか。

 手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない  062

 難民の流れ込むたびアンマンの夜の燈は、ほら、ふえていくんだ  111
 新市街にアザーンが響き止まなくてすでに記憶のような夕焼け  112
 いっせいに北指す磁石 フセインのときも疑わなかったでしょう  119
 実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる  151
 
 砂っぽいアカシアの葉をうつ雨がいま愛恋を追い抜いていく 210
 ふわふわと賛辞を贈りあうカフェの遠景にある鳩の旋回   213
 あなたの想念するクレヨン、そのどれも握りつぶせるほどやわらかい  213
 磨りガラス越しにもわかる砂降りのかつてはリラが通貨であった  245
 
時事詠を読むとき、私は、それが<アースキーパー>的な視点に立脚しているか、<火に油>的に流される壺にはまっているか、というのが、いつもとても気になっている。
<アースキーパー>とは、日常、あたかも当たり前のように享受している平穏な地球上の生活が、実は、多くの人たちの大変な努力の上に立っている、意識的に、その平穏を守るために行動している人たちを指して言う。多くは、当人にとってはあまりメリットが大きいものではなく、むしろ損をしたり身を危険にさらすことも多い。
<火に油>とは、状況が危うい方向に向かっているときに、面白がってそれをあおる行動に出ること。それが悪であると知りながら、権力を志向して甘い汁を吸おうと思っている場合などは確信犯である。

誰もが平和や幸せを望んでいるし、戦いや人殺しや人の不幸を面白いと思うわけがない、なんてお花畑な感覚は私は持っていない。職業柄、そうでなければならない人はもちろんいるだろうけれど、驚きから発した叫びの言葉が、思いもよらない方向に向いてしまう場合だってあるし、ある出来事から憎悪に支配されてしまうことだってあるだろう。究極のところ、表現は、その人自身によるものだから、かなり意識的にならなくてはいけない、と私は思っている。

この歌集に収められているのは、無論、すべてが時事詠ではない。むしろ日常詠のほうが多い。だが、中東に職を持ち否応なく過酷な環境に生活する作者が詠む作品群に、読者はどうしてもその種類のリアルさを期待してしまうし、その期待は裏切られることなく、危うげにしかし安定して詠われているのである。
生命が危険にさらされるかも知れぬ場で詠まれたのにも関わらず、安定した印象を受けるのは、しっかりした口語の生きた日本語とともに、日本の風土と地続きである雰囲気が、多分に感じられるためだろう。

あくまで私の感覚で、他の読者はむしろ真逆の印象を持っているかもしれないと思うのだが、タイトルなどに時折現れる英語の常套句、たとえばビートルズの歌詞のような言葉に、私は無性にほっとする。日本語の詩、短歌が、自国の檻の中に閉じていないことに、安心するのだ。逆に言えば、和歌的な、短歌的な文脈の中にのみ閉塞することに、私は大変な不安感を持っているということだ。これがつい最近の戦争において戦犯領域であったという自覚であるとか、後宮や遊郭の文学みたいなのが嫌だとか、そういう単純な具体的理由のせいばかりでもない気がする。
戦中の世代の人たちのように、外国語や外の文化を排除されずに育ったから、だろうか。
他の歌人の方がどうであるかは知らないが、これは今後も私自身の大きな問題である気がしている。もしかしたら、日本に閉塞するというより、日本自体が、嫌いなのかもしれない、とも思う。この国は、いったい、歴史を超えることが、できるのだろうか? いやそれ以前に、歴史を超えるつもりがあるのだろうか? 詩歌の美しさは、それらの問題を覆い隠したままで、存続し得るだろうか?

批評会の会場からは、特殊な環境の者でなければ詠めない歌というのはどうか、という理由で、ある賞の選考の際に、反対の意見もあったという逸話が披露された。短歌はつくづく、大衆的な文芸である。普通の芸術ジャンルなら、稀有で貴重な経験を表現した、と称賛されるだろう。

歌集は、ⅠからⅥまでの章にわかれていて、Ⅱ~Ⅴのそれぞれの章の扉の裏には、中東の文学作品の他、中国や詩や村上春樹等、他のテキストからの、示唆的な言葉が引用されている。
そして、Ⅵの扉の裏につづられているのは、
「砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、死んだ人と、何が違うんだろって思う」という不思議な言葉。実際そう思ったのだろうけれど、砂漠に託してこういうことを言うのかなあ。これこそ、砂漠だからこそ許される言葉なのかもしれない、という印象を持ったのである。

千種創一歌集『砂丘律』 平成27年12月7日初版発行 青磁社 1400円
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by HIROKO_OZAKI1 | 2016-02-27 19:20 | 短歌と短歌論

12月に読んだ雪の歌集~①『ゆきふる』小川佳世子

2015年12月、タイトルに<雪>を含む歌集を2冊読む。一冊目は、

『ゆきふる』小川佳世子(ながらみ書房 現代女性歌人叢書4)

最近つくられた歌をまとめたもの、この期間の作者の日常の中には、病と仕事、恋、家族、震災が存在する。

 絶食で検査を待って昼を過ぎまだ当事者感覚が来ない
 カーテンを開けて朝ごと来る人を待つ平安の宮廷のよう
 穀物のために降る雨眺めつつやわらかごはんをゆっくり食べる

<穀物><雨><ごはん>という自然の循環の中に作者も居るという現実、そのリアリティの中でも作者はどこか自分を客観視している。日々訪問を待つ時間を平安の宮廷にたぐえるとは。読者として、闘病する作者にひやひやしながらも、甘やかな情景をほのかに思い浮かべる。

歌集にいくつか見られる桜の歌、その花びらは、まるで雪のようにはかなく散っていくイメージで現れる。それはそのまま作者の生命であり魂の実感であるだろう。

 さくときもさかないときもさくらの木 パジャマの時のほんとうの恋
 すべてから抜ける感じを思いおりひとひら落ちて消えし花びら
 ならばどうすればよいのか雨に濡れ咲き切らぬまま散りゆく桜
 ゆらぎつつ桜並木に目をあげず昼の電車にさびしい乗客
 一年で忘れてしまうそのひとつこの木も桜の木であったのか
 私には桜は御室桜やしソメイヨシノはよそさんやなあ
 違う国みたいになりぬ花終わり緑の色の多すぎる庭
 さくらではないそうなので春まではここに居なくてよいのか、そうか

作者は、入院中の医師への思いを<ほんとうの恋>と言う。
このようなブログの感想の中で言葉にしてよいかわからぬほど、つらそうである。
つらそうな歌、と読んでおきながら不謹慎きわまりないのだが、それでも私は、ちょっと前の耽美的な映画『外科室』を思い出したりしている。表現がさきわう国、表徴の王国宇に住んでいる限り、仕方ないことなのだろうと思う。
三首目、句跨りがうまく機能する。六首目、ソメイヨシノとよそさんの歌の響き、京言葉の使い方がきいている。
そして、昼の電車の乗客は桜並木に目もくれぬのである。本当になんともさびしいが、では夜の電車ではどうなのか、意外と皆桜を気にしてるかもしれないよ、などと、いろいろ余計なことを考えてしまう。 

 王国の風をひろげるむらぎものこころのゆめのような王国
 王国に土地はなくてもひとびとはいなくなっても王はいるはず
 あたらしい傷をふやしてしまってもわたしのからだ 秋の王国

<傷>というのは、現実の身体の傷である。決して軽微ではない病を作者が抱えることを、読者は歌集からも知ることができる。もちろん現実の作者を知っている我々もそれを念頭に読むのだが、にもかかわらず、これらの歌に、不思議に響き合えるものを感じるのは私だけではないだろう。歌が生まれる背景にある、なにか世界とのかみあわなさというものが、たぶん、共通しているということなのだろう。

 ゆきふるという名前持つ男の子わたしの奥のお座敷にいる

歌集のタイトルの『ゆきふる』は、この作品から来ているようである。
雪降る?ゆく?ふる? 不思議な音である。実在の少年なのだろうか?

他、印象に残った歌を引く。たくさんあるので困るのだけれど。

 火をはなつほかはなかった幽閉の無明の洞はさむすぎたのだ
 なすすべもなくとけてゆくこころかな床に氷は置かれたままで
 親切に連れてゆかれた神社にて凶のみくじをひいたような感じ
 語られて過去はかわると思う時とおくはちすの花ひらく音

 脚韻の下草に露ふりしきり月夜の森に僕はいるから

 憎しみを愛にかえても悲しみはかなしみのままのこる昼月
 なかぞらはいずこですかとぜひ聞いてくださいそこにわたしはいます

 せんせいがすきですとメモ少女よりもらいひとよの夢はかないぬ
 月は一つ影は幾億何億の人の心にひとつ照る月
 負を糧にきてもし勝ってしまったら途方に暮れる広きくさはら
 ほんとうの人はずいぶん遅刻して虚構の人は間に合っていた
 グリーンカードを取得するよと言ったまま何処にいるのかわからない兄

 十三歳でさらわれた子たちに謂わないで「娘時代のたのしさ」なんて
 こんなにも曝されている場所だった投票所前の夏の校庭
 受け容れてはじめて「主体」になるのかと思いぬ受け入れ難きを聞きて
 研究のお役に立ててうれしいと申す主体はわりとブラック
 
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by HIROKO_OZAKI1 | 2015-12-27 17:20 | 短歌と短歌論

賀川豊彦の詩集 

 私はキリスト者ではないのだけれど、ふとしたきっかけでこの人の詩集と歌集を読んでみたいと思ったのだった。賀川豊彦。徳島県出身のキリスト教社会運動家、社会改良家。
 キリスト教的な人道主義に基づく文章からは、対象としていた当時の時代の状況、特に庶民や貧民の状況が、本当に嫌になるほどよく伝わってくる。

 詩集『涙の二等分』が編まれた時代は、戦後すぐの時代の日本。
その序文を、「人道主義の詩」というタイトルで、与謝野晶子が書いている。

 「日本人の生活は大戦の後の世界的激変に刺激されて、現に最も喜ぶべき本質的の動揺を起し、こ の動揺の中から、破天荒な道徳的秩序と経済的改革とを生み出さうとして居ます。かう云ふ時代に 必要なのは、聡慧な指導者であると同時に熱誠な実行化を兼ねた人材です」「忌憚なく云ふと、最 近の社会問題に触れて指導者となり実行家となって居る人達には概して芸術思想の教養が稀薄であ るやうに見受けられます。言ひ換れば、その人達の熱情が根柢を世界人類の愛に置いて居ると思は れる所が少なく、その人達の言動が粗硬な野生に留まって、芸術思想からにじみ出る香味とデリカ テとを欠いて居るやうに見受けられます。かう云ふ事を以て社会改造家の資格に望むのは余りに十 全を求める嫌ひがあるかも知れませんが、多少でも芸術に由って深められた命の持主にあっては、 さう云ふ人達と或処までは共鳴しながら、其れ以上はどうしてもしつくりと一致し難いと云ふ遺憾 を抑へることが出来ません。
 之に反して、同じ社会改造家の中でも、私が堺利彦さんや河上肇さんの言論に愛着的な一種の離れ 難い親しさを持つと云ふのは、二家の言論に詩があるからです。」

<言論に詩がある>

 ここで私は、近藤芳美が<歌の良し悪しは「詩である」かどうかである>と書いていたことを思い出す。言論とは違って、歌は個人的なものでありながら公のものでもあるけれども、まあそういうことなのだろうと思う。

いろいろな詩があるけれども、『涙の二等分』から、七五調的な美しい詩を引用しておく。

  塑像への恋

 これは秘密の 秘密です、
 知つてゐる人は
 神様と私と、
 胸の奥の その奥に
 隠して こがれて 困つてゐます。
 眼と 膚に 呪れて
 恋に やつれた 私の姿
 胸に隠した 恋故に、
 魂ばかりの 息します。

 肉のよろこび 知つてますよ、
 刹那の 後を どうしましやう。
 つまり私は 消えない 幻想―
 プラトーの様な 恋がしたいのです。
 恋の味い 知つては居ます、
 甘いうれしい ものですね、
 そうかと云つて 私は
 とうの 昔に
 中性に 強い恋をしてゐます。
 (男と女の愛には 飽きました)

 魂と 魂の 恋ですよ、
 眼と 眼の 恋ですよ、
 そうです 私の恋人は
 実は ロダンの「スプリング」です。

 「春」です「春」です
 あの石の塊を
 私は恋してゐるのですよ。

この詩人は、もちろん幸せな結婚をして、貧しい暮らしを選び投獄されたりしながらも家族をきちんと持っているのだけれど、こういう詩も書いている。

そして、詩集には、貧民窟を描いた『狂』という詩などもあって、「思つたやうな勉強もできず」「奇跡も起らず 半鐘も鳴らず」「おとめが 死んだ、淫売のおとめが 二十二の馬鹿・・・死んだ!死んだのですよ!そのお父さんも発熱して居るのですつて。あなたにも 伝染りますよ。さあ、お逃げなさい 貧民窟はうるさいでしやう。」「この恐ろしい人間の堕落をどうなさいます?」「花柳病患者、足なし、心臓病、足の腐つた男、妻を淫売に出す男、高利貸、木賃宿、ああ 恐ろしい」といった言葉が連ねられていて、相当嫌な気分を抱いていたのをそのままきちんと(?)表現されている。
この二つの詩だけを並べるのはよくないと思うのだけれど、とりあえずの覚えとして。
ところで、作者には、宗教者、活動家、学者、作家として知られていて著作もたくさんある、本人の言によれば、

 「私は詩の外に書けない男であるかもしれぬ。私はそれが上手、下手と云うことを離れて、私の胸 の渦巻に、そうした旋律の外、感ずることが出来ないのでもある。私に取っては、科学も、哲学
 も、宗教も、経験も、生活も、凡てが詩になる。内なるものは内なるものの生命の詩となり、外  なるものは表象の詩となる。」(詩集『永遠の乳房』序文)

ということであった。

現代の日本にこういう人が出て来ないというのは、ある意味時代が必要としていなかった、ということかもしれない。だから、幸福なことだったのかもしれない。でも、これからの日本がどうであるかは、わからない。
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by HIROKO_OZAKI1 | 2015-12-26 22:26 | 短歌と短歌論

新宿御苑 吟行 2015.11.8.

小さな会で行っている毎年恒例の吟行会。
今年は、菊花展開催中の新宿御苑に出かけました。

あいにくの雨の中、集まった4人でそれぞれ自由に散策した後、
苑内のレストランゆりのきで昼食をいただきながら相互に披露。
いくらでも時間をかけて巡りたい苑内には、外国人観光客や、
お茶の会か何かの記念のお披露目の会か、和服の若い女性の姿
も目立ち、雨もなかなかの風情となりました。

都庁ビル借景として佇みて雨中千葉うすく色づく
花の色移りにけりと詠ませたきジオラマかもねEdo-giku bed
菊花壇向かひに台湾杜鵑草特別な草の花として在り
たつぷりと尾を揺らしつつわれに寄る人慣れをした池の魚は
清き水に手を浸し歩むそのためにつくられたかのやうな小径を
バラの香の紅茶にひたすマドレーヌ壊るるほどに蒼くもなきに
庭園に雨降るごとくわが心かういふ風に普通にかなしい
風の打つモールス信号確かにまだ時間はあると詩は告げくるる
日常に見ぬものとして訪ね来てうつくしかりき菊も刀も
    (初出 「未来」2016年2月号)

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by HIROKO_OZAKI1 | 2015-11-09 00:00 | 短歌と短歌論

「現代短歌の全景-男たちのうた」川出書房新社(1995.10.)

対談 「詩歌変遷-万葉から現代まで」 大岡信×岡井隆
    「前衛短歌を振り返る 次の世紀の歌のありか」 塚本邦雄×篠弘
討論 「われら、かく歌いき 昭和30年代からの歌」
      佐佐木幸綱×春日井建×小中英之×中川昭×三枝昴之
インタヴュー 戦後短歌の歩み-復興と革新 近藤芳美×大島史洋
座談会 「明日の歌を考える-詩の型と言語」 
      小池光×三枝浩樹×藤原龍一郎×加藤治郎×谷岡亜紀
戦後夭折歌人の系譜 山下雅人
史料・男性短歌誌再考・年表男性短歌史

ほかに、上記の記事に名前があがる代表的歌人の他、当時の若手だった
加藤治郎、荻原裕幸、坂井修一、大辻隆弘等の作家の作品多数。
数えると、71名が、各1ページ、7首ずつの作品を寄せているのだった。

目次を見ただけで目がくらみそうになるような、
何とも盛り沢山な豪華な一冊である。

同社からは、『「同時代」としての女性短歌』(1992)という、この時期の
女性短歌についてまとめた本があるが、そのあとで出たらしい。
やはり短歌の世界は女性上位なのか?
いや、そうではなくて、ちょうどこのあたりで、短歌の世界で男女の
逆転現象が起こりつつあっていたということだ。
女性の活躍が目覚ましいゆえ華やかに物珍しかったのが80年後半から
90年代。
そして今や、人口比からすれば、まるきり完全に逆転しているような印象。
そして、エリート主義から大衆主義へという変遷。

1995年というと、私は短歌をはじめて2-3年、とても頑張って
いろいろ読んだり、近代短歌を書き写したり、一生懸命古典を読んだり
していた時期だ。なつかしいなあ。

最近は私からすると子供の年代のような若い人たちが、この時期に
ついての勉強会を開いたりしているらしいので、教えてあげたい
くらいだけれど、本自体は絶版になっているようだ。

アマゾンでは、168円から購入できるらしく、在庫は10冊とあった。

  誕生日に
 四方より「われを偏愛せよ」と言ふ声迫るなかあへてあなたを  岡井隆

                           (2015.10.現在)
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by HIROKO_OZAKI1 | 2015-10-18 10:48 | 短歌と短歌論

無援の抒情

歌集『無援の抒情』道浦母都子

一気に読み終えてしまった。
もちろん、ここ数か月のショッキングな一連の出来事の後で
手にしたからである。
多くの人たち、とりわけ若者たちが、今、のわけのわからぬ
理不尽さにさいなまれて心が折れそうになっていることだろう。
そういう事情を踏まえて、これは、緊急に出版されたのかも
しれない、とふと思う。

言わずと知れた、道浦母都子伝説。
1980年発行の名歌集の新装版である。
若干の時代のずれと出来事の内容の相違は当然のこととして、
心に残る歌がたくさんあったのですこし書き留めておく。

 少女らの今宵の意志を預かればただ祈りいる静かなるデモ
 釈放されて帰りしわれの頬を打つ父よあなたこそ起たねばならぬ
 たまらなく寂しき夜は仰向きて苦しきまでに人を思いぬ
 今だれしも俯くひとりひとりなれわれらがわれに変りゆく秋
 白鳥の来しこと告げて書く手紙遠き一人に心開きて
 弟と呼びたき愛しき若き群れ地を鮮血で染むことなかれ
 どこかさめて生きているようなやましさはわれらの世代の悲しみなりき
 この国を捨てたき夜に買いし地図いまもリュックに開かずにあり
 蒼ざめし馬にまたがり逃がれゆく雪ふる夜のわが幻は

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『無援の抒情』道浦母都子歌集 ながらみ書房 2015年10月8日発行(2000円)
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by HIROKO_OZAKI1 | 2015-09-29 23:11 | 短歌と短歌論

「石垣島2013」 光森裕樹

 31枚の透明のカード(5cm×7.2cm)に、4.4cm四方のカラー写真と短歌が
印刷されている。スライドか、小型デジタルカメラの画像のイメージである。
 写真、絵、音楽、その他のものと短歌とのコラボレーションは、今ではまったく
珍しくないが、この形は初めてかもしれない。
 そういえば、雑誌の付録のカード(なんか箴言集のようなものだった)や、
チョコレート菓子のおまけのフェアリーのカード、お茶漬けに同封された広重の
浮世絵や西洋画を集めていたことがあった。
どこか懐かしい気がしたのはそのせいもあるのかもしれない。 

 短歌は、歌が描くものをどの程度共有できるかで受け取り方も感動も変わる。
写真によって短歌のイメージが規定されることの長所短所はいろいろあると思うが、
これはこれで、静かにたのしめば良いのだろう。

 ブーゲンビリア葉を咲かせをり才能はただしくきよく無駄遣ひせよ

 みづのなかで聞こえる声は誰の声こぷりと響めばぷこりと返し

 壁掛け時計にみづ満ちてをり此の島が生まれ故郷になることはない

 海への道なめらかに反り海沿ひの道へと変はります 元気です

 嘘を吐くときには旅するごとく吐く日暮れてのちを残る海光

 飛んでゐる蝶こそ止まつてゐますねとたのしげなれば頷いてをり

 雨なかに得る浮力ありいつよりか遠い何処かは此処だと決めて

 島そばにふる島胡椒さりしかりさりと小瓶を頷かせつつ

 うなぞこの砂紋と指紋が一致する祖先が陸にあがつた島で

 小さな箱に大切に収められているのは、2013年の石垣島、豊かで美しい
島の風景である。
歌人本人の姿あるいは多くの石垣への移住者とどの程度オーバーラップさせて
読んでよいかよくわからないのだが、ここには静かに生きることを選んだ人々の
現在が、ひっそりと収められている。
 もちろんこれは作者本人の意図とは別のもので、あくまで読み手である我々の
問題としておきたいのだが、話題になっている、永井佑の「日本の中でたのしく
暮らす」や、堂園昌彦の「ぼくたちはなぜ死ぬのだろう」「通勤するね」という、
遠くに避難することを選ばない、とどまることを選ばざるを得ない多数者たちの
つぶやきのような文言と、あるいは対極のものとして捉えることができる。
(そして私はといえば、その両方に、属している。)

 小さな小さなこの形状は、まことにそれにふさわしいものであるように思えて
きたのである。
 
 手作り、という同じシリーズには、ガラパゴスのものもある。

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(2014.2.9.レヴューの会)
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by HIROKO_OZAKI1 | 2014-02-10 23:17 | 短歌と短歌論


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