楽しい日常日誌 ~詩的否私的日常日記 ~

隠れblogにするつもりでしたが、<私的日常日記>にしました。でも、ネットの私的って,一体なんだ!? 
by HIROKO_OZAKI1
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いのちいっぱい ~ 鳥居歌集を読む


桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり

という、岡本かの子の歌を思い起こしている。

2016年12月29日(木)、京都。鳥居歌集「キリンの子」を読む会。

「キリンの子」鳥居歌集は、2万部という、歌集としては破格の部数を売り上げた歌集。TVや全国版の雑誌、新聞などでも紹介され、フランスにも招聘されたり、最近は岡井隆との50首の歌合も総合誌に発表(相手が岡井隆だから余計そう思うのかもしれないが、かなり上手いように思う)し、すでに著名作家ということである。
イベントには、短歌の世界ではすでに著名人である50代のパネリストの他、会場にも、短歌総合誌で頻繁に名前を見る歌人たちが集い、発言をされていた。若い短歌作家や、ファンの人たちの姿も多い様子である。
実行委員は、岡井隆、大辻隆弘、水原紫苑、吉川宏志。12月に入って急きょ企画されたという。
会は、あくまでも短歌作品に即しての評を中心に進められたが、このような創作の仕方による本人の心理の危うさについても、言及されていた。マイクも入っていたし、メモを取りそびれた部分もあるので、後でどこかで完全なものを読めないだろうか、と思う。

私はと言えば、歌集を読み進めながら、作者の体験を通して語られる実態に驚くことも多かったが、ここに至って、作者本人の言葉を聞いて、涙が止まらなくなった。言ってもらわないとわからない。多少それに似た経験があったとしても、誰もが弱みを見せずに生きている中で、沈黙することで見過ごしてしまうたくさんのこと。そういうことがまぎれなく存在することを、この小さな女の子が、私たちに知らせている。(それは、本当は、この社会の中の誰がするべきことなのだろうか?)
最近は景気がよいとかなんとか言われているけれども、相対的貧困の度合いは高まっているし、自殺者は相変わらず多い。日本の子どもの貧困が5人か6人に1人という数字までよく知られて、問題になっているはずだ。
歌集とノンフィクションには、作者が、大変な状況の下でここまで来られたことが、たくさんの事実を歌う作品と共に示されている。短歌は実名の文学である、と言われているし、私もそう思うのだけれど(過大なフィクションが嘘として疎まれるのはまさにその点においてであるのだろう)、この作者に関しては、今のところは、本名を明かさない上での「実名」でよいのだろう。
「キリンの子」はちゃんと買ってきちんと読んだ方がよい歌集だし、短歌と合わせて、作者の生い立ちをつづった、ジャーナリスト岩岡千景の「セーラー服の歌人鳥居」も、読んだほうがよい。

「ほんとうのこと」が社会に訴える力は大きい。だが、当事者が声を挙げることは、弱者であればあるほど難しい。短歌という日本語を母語にする者の<骨格>とも言えるような定型詩を創作していく中で、作者はそのことに大きな意味を見出しているようだ。(さて、それで、読む側はどうなのか。)

作者は、あいさつの中で、「泣き叫びたくなるようなことを、泣きながら歌にした」と語っていたが、これらの作品群は、受け取る側にとっても、たぶん、ぎりぎりの、読んで作品として許容できるラインなのではないだろうか。

過酷な状況下にあった魂が、これから、どのような風景に感じ入り、どう言葉に思いを託し、詠っていくか、ということに、(どんな対象を素材として選ぶかということも含めて)、私は関心がある。
例えば、招へいされて出かけたフランスで目にした異国の諸もろの風景に、作家はどういう思いを抱いただろうか。
詩との出会いは岡井隆であるという作者、「写生」という方法にも関心を抱いている様子が本には書かれている。植物の名前など、私なども知らないものが多いけれど、植物園に行けば、木や花や動物の名前も表示されているから、そういう場所での吟行は大好きなのである。もちろん植物園でなくても、動物園や博物館でも、日常の風景でもよいのだけれど、様々なものを見て言葉によって思いを広げようとするとき、こんな風に繊細な魂は、どういう風に翼を広げていくのだろうと、はらはらするような期待を持ってしまうのだ。

 夜の湖に君の重みを手放せば陶器のように沈みゆきたり

この歌のもとになった作品は、ノンフィクションのほうの書物に紹介されている。

 夜の湖に君の重みを手放せば陶器のように沈みゆく首

陶器の重さと静けさ。最初は、首というさらにどきりとする表現であった。
もとになっている経験は、湖ではなくて、故郷の海でのある出来事。そこでは、戦後十年目の夏に、地元の女子中学生の集団水死事件があったという。友の墓参りの帰り道、思いが極まって、冬のその海に向かって走り水に入ろうとした。
海岸は、三重県の津であるというから、私もちょっとは土地勘がある。人に聞いたら、その海岸は護岸流が激しい場所で、それで引き込まれやすい場所であるという。女子中学生の事件はその流れのせいなので、戦争で亡くなった人たちに引きずり込まれたというのはもちろん後付けの話。


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by HIROKO_OZAKI1 | 2016-12-30 12:03 | 短歌と短歌論
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