月の櫂 |
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http://www.itoen.co.jp/new-haiku/18/kasatoku03.php
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私はなぜ、歌集を読むのだろう。
結論から言えば、どうしようもない国の、アメーバみたいに得体のしれない人々、ではなくて、ひとりひとりの一所懸命生きている姿と声に出会いたいから、であると思う。 特に、この歌集は、震災を経ての、東北出身者である歌人による作品集である。 時に、原発事故は日本という変な国への天罰、欲望のままに走り続けたあげくの自業自得的滅亡路線、とマイナスな方向に向かいそうになる意識を、そうではいけない、社会や国や世界はよい方向に向かってもらわないといけないのだ、といったごくごく真っ当で健康な方向に補正できるようにしたいから、なのだ。(この歌集はそうではないけれど、本音で言えば、必ずしもそううまくは運ばない場合も結構あるのだけど。) この歌集を読んでいて、心象風景の奥に何かが見えるような気のする歌に時々出会った。 普通、こういうものには人は強い共感を抱かない。不思議な感性だ、なんとなくわかる、などという感想は持っても。だが不思議に私は、この類の歌に変な共鳴を覚えたのである。それも、同時代を幾分でも共有している所以であろうか。 伸びてゐる自分の影の先端に触れることなく上る坂道 82 二秒後のわたしがそこにゐるだらう今の自分の影の頭に 83 少しだけ翳つたやうだこの森のどこかにきつとスイッチがある 91 前半の、故郷と両親にまつわるストーリーを読み取りやすい境涯詠を別にすると、現代の風物をモチーフにしている歌が多い。だが、 とほい世の落葉松林だつたらうお湯にほどけるチキンラーメン 68 は、茂吉の「遠き世の迦陵頻伽の私児」を想起させるし、 ゼラチンで固めてしまふ三月の雪の話をしようぢやないか 112 という意味をつかみにくい歌は、岡井隆の女性のマラソン選手の容貌を皮肉った歌を思い起こさせるのだ。 また、作者は、(これは6月11日(2016年)に開かれた批評会でも多く指摘されていたが)、枕詞を用いる作品にも果敢に挑戦する。 ひつそりと書棚の奥のしらまゆみHAL9000はだれを待ちゐる 92 といった具合。 明らかに短歌と和歌の歴史の縦軸を意識した作品に出会うのだ。 詩とは分けて、「短歌」ってなんだろう、と考えた時、単なる57577という音数の縛り以外になにかがあるとすれば、それはまさにその辺りにあるのではないだろうか、と私は思う。 日本語の定型詩である短歌と和歌が辿ってきたその時々の、詩歌のありようによる作り方で短歌を作ることを楽しむ。たとえば、叫んだり泣いたり、怒ったり訴えたり、自然を写してそこに自分の心を託したり、自然以外のモノや人に思いを寄せたり、誰かに伝えたり、日常を記録したり、日本語の音の心地よさに酔いしれながら音数をあわせたり。 それは時に、自分が意識しなくてもどういうわけか自然にそうなってしまう、といった類のものであり、まさにそのことが、短歌をつくる魅力である、と私は思うのだが、この歌集の作者は、きちんとそれらを学んで(短歌を作るのに「学ぶ」という言葉がふさわしいかどうかわからないのだけど)踏まえながら、作歌に臨んでいる、というふうに思える。無論作者は、それをひけらかしているわけではなくて、歌に向き合いながら、そのことを楽しんでいるのである。 また、私はこの歌がとても面白いと思ったのだけれども、 青空を鳥のかたちに切り抜いて摑む/離れるフォロワーの数 84 というtwitterの状況をうたったと思われる作品。三句目まででは、マグリットの「大家族」の絵を思い起こさせる。相手を知っているのか知らないのかさえ曖昧なtwittterという空間は、変に親密な雰囲気の「大家族」、のようなものにも思えてくるし、その「大家族」というキイワードは、古く近代より昔の農村の大家族の様相さえ、垣間見させる。それは、作者が何度も何度も提示する郷里のどちらかというと洒落たイメージ「イーハトーブ」とは真逆の、そこに居る者や作者をむんずと摑んで離さない、遠野物語のような陰鬱な世界でもある。中ほどのスラッシュ記号「/」は、その断層のように自分の存在と隔絶した感覚を示しているようにも思われてくる。 いくら何でも深読みのし過ぎだろう、と言われそうな気もするが、 青空を渡りゆくなり方言を持たない鳥の呼び合ふ声が 31 といった作品の存在は、決してその解釈を否定しない。 郷土、しかも都会ではない地(都会だって日本は<田舎>だ)について現代人が語る時、土着のマイナスの部分を、いかに払しょくするか、ということにかかっているのではないかと思うのである。
by HIROKO_OZAKI1
| 2016-06-13 21:42
| 短歌と短歌論
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