楽しい日常日誌 ~詩的否私的日常日記 ~

隠れblogにするつもりでしたが、<私的日常日記>にしました。でも、ネットの私的って,一体なんだ!? 
by HIROKO_OZAKI1
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千種創一歌集 『砂丘律』

最近話題の、千種創一の歌集『砂丘律』。
2月に名古屋で開かれた批評会には多くの人が集まり、充実した内容の会となった。
口語律の問題は、ここで一応うまくまとまった、という印象である。

歌に描かれる、日本の情景、異国の情景。作者の不毛感、違和感。心象。救いのような他者とのかかわり。だが、それもまた時に危うい存在に思えてくる。
そして読者は、この歌集の風景が、危険が常態化している異国と地続きのものとして、表向き平和である日本の日常でもあることを示されるのだ。実際、日本の景と異国の景は、区別されずに歌集の中にあらわれ、読者もそれに違和感を持たない。
異国にあって母国語で歌う時に土台となる、母語に対する郷愁のようなものがあまり感じられないのは、現代という時代とそこに生きる若者たちが、思う以上にグローバル化されている、ということなのだろうか。

 手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない  062

 難民の流れ込むたびアンマンの夜の燈は、ほら、ふえていくんだ  111
 新市街にアザーンが響き止まなくてすでに記憶のような夕焼け  112
 いっせいに北指す磁石 フセインのときも疑わなかったでしょう  119
 実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる  151
 
 砂っぽいアカシアの葉をうつ雨がいま愛恋を追い抜いていく 210
 ふわふわと賛辞を贈りあうカフェの遠景にある鳩の旋回   213
 あなたの想念するクレヨン、そのどれも握りつぶせるほどやわらかい  213
 磨りガラス越しにもわかる砂降りのかつてはリラが通貨であった  245
 
時事詠を読むとき、私は、それが<アースキーパー>的な視点に立脚しているか、<火に油>的に流される壺にはまっているか、というのが、いつもとても気になっている。
<アースキーパー>とは、日常、あたかも当たり前のように享受している平穏な地球上の生活が、実は、多くの人たちの大変な努力の上に立っている、意識的に、その平穏を守るために行動している人たちを指して言う。多くは、当人にとってはあまりメリットが大きいものではなく、むしろ損をしたり身を危険にさらすことも多い。
<火に油>とは、状況が危うい方向に向かっているときに、面白がってそれをあおる行動に出ること。それが悪であると知りながら、権力を志向して甘い汁を吸おうと思っている場合などは確信犯である。

誰もが平和や幸せを望んでいるし、戦いや人殺しや人の不幸を面白いと思うわけがない、なんてお花畑な感覚は私は持っていない。職業柄、そうでなければならない人はもちろんいるだろうけれど、驚きから発した叫びの言葉が、思いもよらない方向に向いてしまう場合だってあるし、ある出来事から憎悪に支配されてしまうことだってあるだろう。究極のところ、表現は、その人自身によるものだから、かなり意識的にならなくてはいけない、と私は思っている。

この歌集に収められているのは、無論、すべてが時事詠ではない。むしろ日常詠のほうが多い。だが、中東に職を持ち否応なく過酷な環境に生活する作者が詠む作品群に、読者はどうしてもその種類のリアルさを期待してしまうし、その期待は裏切られることなく、危うげにしかし安定して詠われているのである。
生命が危険にさらされるかも知れぬ場で詠まれたのにも関わらず、安定した印象を受けるのは、しっかりした口語の生きた日本語とともに、日本の風土と地続きである雰囲気が、多分に感じられるためだろう。

あくまで私の感覚で、他の読者はむしろ真逆の印象を持っているかもしれないと思うのだが、タイトルなどに時折現れる英語の常套句、たとえばビートルズの歌詞のような言葉に、私は無性にほっとする。日本語の詩、短歌が、自国の檻の中に閉じていないことに、安心するのだ。逆に言えば、和歌的な、短歌的な文脈の中にのみ閉塞することに、私は大変な不安感を持っているということだ。これがつい最近の戦争において戦犯領域であったという自覚であるとか、後宮や遊郭の文学みたいなのが嫌だとか、そういう単純な具体的理由のせいばかりでもない気がする。
戦中の世代の人たちのように、外国語や外の文化を排除されずに育ったから、だろうか。
他の歌人の方がどうであるかは知らないが、これは今後も私自身の大きな問題である気がしている。もしかしたら、日本に閉塞するというより、日本自体が、嫌いなのかもしれない、とも思う。この国は、いったい、歴史を超えることが、できるのだろうか? いやそれ以前に、歴史を超えるつもりがあるのだろうか? 詩歌の美しさは、それらの問題を覆い隠したままで、存続し得るだろうか?

批評会の会場からは、特殊な環境の者でなければ詠めない歌というのはどうか、という理由で、ある賞の選考の際に、反対の意見もあったという逸話が披露された。短歌はつくづく、大衆的な文芸である。普通の芸術ジャンルなら、稀有で貴重な経験を表現した、と称賛されるだろう。

歌集は、ⅠからⅥまでの章にわかれていて、Ⅱ~Ⅴのそれぞれの章の扉の裏には、中東の文学作品の他、中国や詩や村上春樹等、他のテキストからの、示唆的な言葉が引用されている。
そして、Ⅵの扉の裏につづられているのは、
「砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、死んだ人と、何が違うんだろって思う」という不思議な言葉。実際そう思ったのだろうけれど、砂漠に託してこういうことを言うのかなあ。これこそ、砂漠だからこそ許される言葉なのかもしれない、という印象を持ったのである。

千種創一歌集『砂丘律』 平成27年12月7日初版発行 青磁社 1400円
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by HIROKO_OZAKI1 | 2016-02-27 19:20 | 短歌と短歌論
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